top of page

​『エレマン・プレザン』
Elément Présent

Atelier Elément Présent』は、フランス語で「現在の要素」という意味を持つ「エレマン・プレザン」を名前に掲げ、画家の佐藤肇・敬子が1991年に東京から三重県志摩市に移住して開設しました。アトリエの名前には、現在というこの時代、場所において、重要な構成要素でありたい、という願いが込められています。
エレマン・プレザンの前身となったのは、画家佐藤武雄が1969年から89年まで主宰した、世田谷版画工房でした。「生活と美術の融合」を目指し「争うな」が口癖だった佐藤よし子の祖父のスピリットは、50年以上の時を経て、賛同してくださる様々な企業、学生、スタッフたち、そして平和的な感性を持つダウン症の人たちと共に「ダウンズタウンプロジェクト」へと受け継がれ、今に至ります。

その後2001年に佐久間寛厚・佐藤よしこが「アトリエ・エレマン・プレザン東京」を代々木に開設、経堂にアトリエを移し2020年の閉幕まで、ダウン症の人々を専門としたプライベートアトリエで彼らとの制作に携わってきました。

『アール・イマキュレ』
Art Immaculé

ダウン症の方と一緒に制作する内に、彼らの作品に一貫した調和的な特徴があることを見出した佐藤夫妻は、スイスのアール・ブリュット・コレクション初代館長であるミシェル・デヴォー氏に手紙を書きます。美術史の枠組みで捉えられない作品を「アール・ブリュット」(生の芸術)と位置付ける中で、ダウン症の人々の作品に見られる、一貫した色彩の調和やオブジェクトのリズム感は、美術史上で新しく分類する必要があるのではないか?と考えたのです。

ミシェル・デヴォー氏との交流を通し、三重県立美術館前館長酒井哲朗氏により、ダウン症の人々の作品は『アール・イマキュレ』(無垢の芸術)と命名されることになります。

『エコール』
École

活動を通して見えてきたのは、彼らの素晴らしい特性である調和の世界が、現代社会の中では生きづらさとなってしまうという事実でした。中学校まで普通学級で過ごしたダウン症のこども達が、高校から養護学校などで別々の道を歩き始めてしまう。彼らのリズムで通える場所を作ろう!と、2002年に「ビバvivant」、「エコールécole」というクラスが始まります。




 

 

 



学校作っちゃった!(ポプラ社)

学校の代わりに通える場所として作った「エコールécole」は、あくまでもプライベートアトリエであり、たくさんの人を受け入れることはできません。養護学校を卒業してたとえ就職できたとしても、職場の環境に馴染めず心身を害してしまう人も多い。どうしたらダウン症の人々が健康な状態で自然に暮らせるのだろう?という思いは「ダウンズ・タウン」の構想に繋がっていきます。

「アール・イマキュレ」専門の美術館が創設され、そこを中心にダウン症の人々が自然に暮らせる”美術村”を作る。ダウン症でない人も彼らに接して本来持っていた感性を取り戻せる。そのような関係と創造の場の実現を目指して動き始めました。

History

1969-2020

1969-1989

世田谷版画工房

1969年 画家の佐藤武雄(さとうたけお)、植物染料の染色家の静子(しずこ)が世田谷版画工房を始める

1980年 渋谷に「子供のアトリエ」開設

1984年 石川英太さんに出会う

1991-2020

アトリエ・エレマン・プレザン

1990年~ その工房で学んだ人達が中心となり、ダウン症のある人たちの為のプライベートアトリエ、「アトリエ・エレマン・プレザン」(東京・志摩)を設立

1991年 三重県志摩市に移住して画家の佐藤肇(はじめ)、敬子(けいこ)が「アトリエ・エレマン・プレザン」(Atelier élément présent)を開設/高木健一郎さんに出会う

2001年 佐藤よしこ、佐久間寛厚(ひろあつ)が代々木に「アトリエ・エレマン・プレザン東京」開設

※アールブリュットコレクションの初代館長のミシェル・デヴォー氏に手紙を送り交流が始まる。そこからArt Immaculé「アールイマキュレ」がうまれる。

2002年 ビバvivant、エコールécoleクラスも開設

2007年 多摩美術大学芸術人類学研究所 特別研究員になる

2008年 アトリエ・エレマン・プレザン東京が代々木から8月経堂に引っ越し

2016年 一般社団法人Down’s Town Project ダウンズタウンプロジェクトを設立

2020年 東京アトリエを閉鎖

drawing2.jpg
bottom of page